Freundliche Genehmigung von Thomas Rabe

ジョン・ラーベ 終着駅「シーメンスシュタット」

ジョン・ラーベは第2次世界大戦の際中国シーメンス会社の支配人として滞在していました。日本軍が当時中国の首都であった南京を包囲したときまだ駐留していた外国人と一緒に国際難民安全地区設立し、その委員長を務めていました。250,000の中国人を助けたと言われています。

そのため南京没落後すぐにベルリンに呼び戻されました。敗戦ドイツ母国で彼の人生はナチ党員だったことが原因で病気と食糧難になやまされ、ひっそりベルリン・シュパンダウで亡くなりました。

彼の人物像については、日本、中国、ドイツでいまだに論争が続いています。彼は英雄なのか、裏切り者なのか、それとも単に忘れられた人間なのか。戦後、中国では尊敬されていますが、祖国では疎ました。『中国では生き仏と呼ばれたが、今は痩せたナチスの犬になってしまった』(ジョン・ラーベ日記)

ごく普通の人間がヒュウマニズムに燃え当時のヒットラー政策に反対の行動をとった勇気。それが原因で貧困の中で死んでいった事実。この2つの出来事を音楽にしたいと思いました。ジョン・ラーベは貧困生活を強いられた時も決して自分の人生を悔やんでいませんし、誰のせいにもしていません。まだ命があることに感謝しています。なんという人格の持ち主なのでしょう。

10年以来温めていたジョン・ラーベ・プロジェクトにパンデミックの冬じゅう取り組んでいました。閉じ込められていたから丁度よかったのかもしれません。オペラでもなくミュージックシアターでもなく、コンサートパフォーマンスと名付けて、音楽が語るシアターピースが出来上がりました。一方、共同出演者のヒストリカーラボ・グループは、ジョン・ラーベに関する歴史的資料を曲の中で「語り」の役割として発表します。

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女性作曲家の庭
© Gisela Weimann, 2020
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